不自由という幸福

こんなに心が穏やかになったのは何年ぶりだろうか。

私は深い安堵感の中、ゆっくりコーヒーを入れていた。

 

数日前、私は感染症陽性という宣告を受けた。人との接触を制限され、長い隔離生活の始まりだった。

職場にまず一報を入れ、しばらくの間お休みを頂くこととなった。

 

保健所から連絡が入り、この先の10日間、外には出ず、ゴミもださず、食事は出前をとるよう指示された。

ここまで徹底して隔離した”一人の”生活は初めてだった。

 

さて…。何をしようか…。

 

外に出れないとなると、家で一人でいるしかない。おのずとやる事は決まってくる。

今までやりたかったが手を出せなかった参考書に手を伸ばす。忙しくてろくに連絡の取れなかった友達に連絡してみる。そして、自分とひたすら向き合う。

 

外に出れない、誰とも会えないという制約は、いつも何か外に幸せを探し求めて、何か物足りず、どこか虚しさを感じていた自分にとって、今まで感じた事がない安堵感をもたらしたのだった。

 

それから毎日、勉強をして、休みたい時に休んで、寝たい時に寝た。

 

最初はどうなるかと思った隔離療養生活。

うやむやだった自分自身ととことん向き合い、希望を見出し、なんのストレスも感じず、それに向けて一歩一歩、ただ前に進む。

なくてはならない満ち足りた時間を、享受できたのである。

親の気持ち

この歳になってやっとのこと、親の気持ちがわかってきた。

 


まだ、子はないので、本当の意味では理解していないのかもしれない。

 


それでも、ああ、子供頃、

親父がピカピカに自分の車を洗っていたっけ。

 


ピカピカになった自分の車で家族でお出かけ。

 


きっと一つ、やりたい事が叶って、得意げに洗っていたのだろう。

 


そういった情景が、今はなぜだか涙が出るほど大切な記憶。